征韓論とは何だったのか?西郷隆盛の真意と明治六年政変の真相
1873年10月、議論は完全に暗礁に乗り上げました。10月15日の閣議において、一度は西郷の朝鮮派遣が正式決定されます。しかし、内治派の首領・岩倉具視と大久保利通は、水面下で周到な政治的逆転工作を仕掛けました。
太政大臣・三条実美が心労のあまり病に倒れると、岩倉が太政大臣代理に就任。岩倉は明治天皇に対し、閣議決定とは正反対の「使節派遣延期」を単独で奏上し、天皇の勅許を取り付けるという政治的クーデターを断行したのです。
自らの信義を裏切られた西郷隆盛は、即座に参議・陸軍大将の辞表を提出して下野しました。これに同調して、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣ら主要閣僚が一斉に辞職。さらに西郷を慕う薩摩出身の軍人・官僚約600名が職を辞して帰郷する事態となりました。これが日本近代史上最大の政治クーデター「明治六年政変」です。
この政変は、その後の日本社会に二大潮流を生み出すことになります。
- 武力蜂起への道:政府に絶望した士族層は反乱を起こし、1874年の「佐賀の乱(江藤新平主導)」、そして1877年の日本最後にして最大の内戦「西南戦争(西郷隆盛擁立)」へと突入、士族社会は武力的に壊滅しました。
- 言論闘争(自由民権運動)への道:下野した板垣退助や後藤象二郎らは「愛国公党」を結成し、武力ではなく言論と民衆の力で国会開設を求める「自由民権運動」を展開、大日本帝国憲法発布と議会政治の創設へと繋がっていきました。