藤原定家の知られざる素顔とは?百人一首の選者が残した天才の真実
定家の生涯における最大のハイライトであり、日本文学史上最も劇的な人間ドラマが、後鳥羽上皇との複雑な愛憎関係です。文武両道にして並外れた情熱を持った若き君主・後鳥羽上皇は、定家のずば抜けた和歌の才能をいち早く見抜き、国家的大事業である『新古今和歌集』の撰者に抜擢しました。
しかし、二人の関係は単なる主従関係にとどまりませんでした。上皇自身が並々ならぬ歌才を持っていたがゆえに、歌の解釈や美意識を巡って定家と真っ向から衝突することになります。定家が追求したのは、言葉の余情や幻想的な美しさを重んじる「幽玄」「有心(うしん)」の境地でした。これに対し、より明快で力強い調子を好む上皇との間で、選歌の方針をめぐり激しい論争が繰り返されたのです。
決定的な亀裂が入ったのは1220年のことです。上皇が催した歌会において、定家が提出した歌に不満を示した上皇に対し、定家は激しい不満を態度に表して勅勘(宮中への出入り禁止処分)を被ります。その翌年、1221年に承久の乱が勃発。鎌倉幕府に敗北した後鳥羽上皇は隠岐島へと配流されますが、定家はこの大動乱の最中も『明月記』に「紅旗征戎(朝廷の軍事行動)は吾が事に非ず」と冷徹に記し、政治的破滅から距離を置きました。互いに才能を認め合いながらも、芸術家としてのエゴと美学を曲げられなかった二人の確執は、中世の表現者が抱えた業の深さを物語っています。