柴田哲孝が暴いた下山事件の真相と黒幕|祖父の遺品が語る昭和史最大の闇
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下山事件の全容を理解する上で避けて通れないのが、1949年当時の日本が置かれていた極度に緊張した政治状況です。敗戦から4年、日本は依然としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にありました。ドッジ・ラインに伴う緊縮財政と行政整理により、国鉄には約10万人規模の大規模な人員整理(首切り)が課せられており、初代総裁に就任した下山定則はその矢面に立たされていました。
7月5日朝、下山総裁は公用車で出勤途中に「日本橋三越」に立ち寄ったまま消息を絶ちます。翌7月6日未明、東京都足立区の常磐線・北千住—綾瀬間の線路上で、無残に轢断された遺体となって発見されました。当時の警視庁捜査本部は、捜査一課を中心とする「他殺派」と、捜査二課および上層部を中心とする「自殺派」に真っ二つに割れ、法医学界でも東大の古畑種基教授(死後轢断=他殺を主張)と慶応大の中舘久平教授(生前轢断=自殺を主張)の間で激しい鑑定合戦が繰り広げられました。
その後、捜査本部は公式な結論を出さないまま捜査を縮小。公式発表が行われないまま迷宮入りとなった背景には、単なる捜査の混乱を超えた、国家権力および占領軍による強い情報統制が存在していたと指摘されています。