徳川慶喜の子孫の現在は?カメラマンや作家など多様な経歴を持つ子孫を家系図をもとに解説! | かっこいい有名人研究所
明治維新以降、側室は2名でした。そのうちの一人、新村信との間には5人の女の子と5人の男の子が生まれました。
徳川慶喜家の2代目当主となったのは七男、徳川慶久です。
五男・池田仲博は貴族院議員・陸軍軍人
生誕 1877年(明治10念)8月28日- 死没 1948年(昭和23年)1月1日
徳川慶喜家の5男として生まれましたが、それまでの子どもは幼いうちに亡くなってしまったため事実上、長男として三男四女の子どもに恵まれました。
七男・徳川慶久(よしひさ)は第一銀行取締役
生誕 1884年(明治17年)9月2日- 死没 1922年(大正11年)1月22日
生まれた時は久(ひさし)と名付けられ、徳川慶喜家の継嗣になる際に、「慶久」と改名されたそうです。妻は有栖川宮威仁親王第二王女の徳川實枝子。1男4女に恵まれました。
貴族院議員・第一銀行取締役・家族世襲財産審議会議長などを歴任し、非常に多趣味で才能にあふれる人柄だったといわれています。
1910年に公爵を受け継ぎ、徳川慶喜家の第二代当主となりました。
しかし、1922年1月、37歳という若さで急逝しています。
死因は脳溢血とされていましたが、一部には自殺説も取り沙汰されています。また睡眠薬の服薬量を間違えた過失死であるとの証言もあるようです。
十男・勝精(かつくわし)は勝海舟の娘と結婚
生誕 1888年(明治21年)8月23日 – 死没 1932年(昭和7年)7月10日
1888年に徳川慶喜の十男として生まれました。母は新村信。
勝海舟から慶喜に養子縁組の話があり、慶喜は精の養子入りを承諾しました。勝海舟の孫となる伊代子の婿として、勝家に入りました。
伊代子との間に1男5女をさずかりました。
孫・宣仁親王妃 喜久子は昭和天皇弟と結婚
生誕 1911年(明治44年)12月26日‐死没 2004年(平成16年)12月18日
1930年に宣仁親王と結婚。慶喜の孫と昭和天皇の孫との結婚とあり、「公武合体」と話題をよびました。
孫・徳川慶光(よしみつ)は貴族院議員
生誕 1913年(大正2年)2月6日 - 死没 1993年(平成5年)2月6日
1922年(大正11年)に、父である徳川慶久(第二代当主)が急死したため、齢わずか10歳で爵位を受け継ぎました。1938年(昭和13年)に会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚しています。
1943年(昭和18年)2月6日に満30歳となり貴族院公爵議員に就任しました。
終戦後、華族制度の廃止に伴い、爵位と貴族議員の議席を失っています。
孫・井出久美子は95歳で作家デビュー
生誕 1922年(大正11年)9月23日 – 死没 2018年(平成30年)7月1日
慶喜の孫にあたる井出久美子は、慶喜の七男(慶久・第二代当主)の四女として誕生しました。
慶喜の死後に誕生した孫とのことで直接の面識はないものの、慶喜が晩年過ごしたお屋敷で幼少期を過ごしたとのことです。
なんと95歳のときに、10年以上前から温めていた原稿を一念発起で仕上げ、自叙伝『徳川おてんば姫』(東京キララ社)を出版しています。
95歳にして作家デビューということで当時話題になりました。
出版・作家デビューからわずか1か月足らずの2018年7月1日に老衰のため死去しています。
ひ孫・徳川 慶朝(よしとも)はカメラマン
生誕 1950年(昭和25年)2月1日 – 死没 2017年(平成29年)9月25日
徳川慶喜家第三代当主・徳川義光と会津松平家出身の和子との間に長男として生まれました。
大学を卒業後は広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍しています。
独立後はフリーの写真家として歴史的建造物や徳川家伝来の遺跡を中心に撮影を行っていたとのことです。
フリーで活動を開始後、徳川慶喜家に秘蔵されていた写真を発見し、修正、保存・整理を自ら行っていました。
中には慶喜自身が撮影していた写真も含まれているということです。
元妻との間に二男一女をもうけましたが、離婚後、子どもは3人とも元妻が引き取り徳川の姓ではありません。
2017年9月に心筋梗塞により茨城県水戸市の病院で67歳で死去されています。