東大全共闘とは何だったのか?安田講堂事件と三島討論の結末を徹底解明
東大紛争の発端は、イデオロギー闘争ではなく、医学部の過酷な労働環境に対する切実な問題提起でした。1968年当時、医学部卒業生に義務付けられていたインターン制度は、無給かつ身分保障のない劣悪な労働条件であり、これに代わる「登録医制度」の導入を巡って学生側の反発が激化しました。これが東大医学部インターン闘争です。
事態が全学を巻き込む暴風雨へと変貌した直接の引き金は、大学当局の強硬な対応にありました。1968年3月、大学側は医局員と学生の小競り合いを理由に17名の学生へ退学や停学などの処分を下しましたが、その中には現場にいなかった学生への誤認処分が含まれていたことが判明します。不当処分撤回を求めた医学部生が1968年6月15日に安田講堂を一時占拠すると、大河内一男総長(当時)は6月17日、警察機動隊を構内へ導入しました。
警察権力の学内乱入は、戦前の弾圧を想起させ、全学部の学生や若手研究者の間に激しい怒りを呼び起こしました。こうして1968年7月、特定の共産主義党派に属さないノンセクト(無党派)を中心に結成されたのが全学共闘会議(東大全共闘)です。
東大全共闘が掲げた目的と理由は、単なる処分撤回や制度改善にとどまりませんでした。彼らは「産学協同路線批判」を通じて、大学が国家や大企業の歯車となるエリート養成機関に成り下がっていると告発しました。さらに、特権的な知識人予備軍である自分自身を撃つ「自己否定」の論理を提起し、全学部へのストライキ(無期限スト)と「東大解体」を叫んで全学の建物をバリケード封鎖していったのです。