辻斬りとは何か?侍が無差別襲撃に走った狂気と幕府処罰の真相
江戸初期の江戸市中は、関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て主家を失った大量の浪人が溢れ、治安は極めて悪化していました。特に第3代将軍・徳川家光から第4代将軍・徳川家綱の治世にかけて、辻斬りの横行は町民の日常生活を著しく脅かす社会問題へと発展しました。
事態を重く見た江戸幕府は、慶安3年(1650年)に厳格な「辻斬り禁止令」を布告。夜間の警備体制を強化するとともに、辻斬り常習犯に対する徹底的な摘発に乗り出します。さらに承応4年(1655年)などにも重ねて禁令を発し、違反者には一切の容赦のない重罰を科しました。
辻斬りを犯した者に対する刑罰は過酷を極めました。武士階級であれば通常認められる名誉ある死「切腹」は許されず、犯罪者として引き回しの上で「斬首」や「獄門(さらし首)」に処されました。さらに処罰は当人にとどまらず、家名断絶、領地没収、親族の連座など、一族郎党に壊滅的な処分が下されたのです。
有名な歴史的事件としては、旗本奴の首領として知られた水野十郎左衛門(水野成之)ら「大小神祇組」の壊滅劇が挙げられます。彼らは市中で町人奴と抗争を繰り広げ、無差別な辻斬りや狼藉を繰り返していましたが、幕府権力の徹底的な弾圧によって一網打尽にされ、水野は切腹、配下の旗本奴たちは死刑に処されて解体を余儀なくされました。これら一連の強硬策と町木戸(夜間に通りを遮断する木戸)の設置によって、江戸の夜間治安は劇的に改善へと向かいました。