巨匠・横山大観の真相|なぜ富士山と朦朧体は今なお人々を魅了するのか
横山大観の生涯は、順風満帆なエリートコースとは程遠いものでした。水戸藩士の長男・酒井秀麿として生まれ、後に母方の横山家を継いだ大観は、東京美術学校(現・東京藝術大学)の第1期生として入学します。そこで運命的な出会いを果たしたのが、校長であった岡倉天心(おかくら てんしん)でした。
天心は「東洋の理想」を掲げ、学生たちに強烈な問いを投げかけました。「空気をどうやって描くのか」「線に頼らずに広がりを表現してみよ」――この天心の挑発的な指導こそが、大観の探求心を生涯突き動かす原動信となります。やがて美術学校内の騒動で天心が失脚すると、大観は恩師に殉じる形で職を辞し、1898年に日本美術院の創設に参加しました。
しかし、新天地での船出は困窮を極めました。前述の「朦朧体」へのバッシングにより国内で絵がまったく売れず、活動拠点を茨城県の景勝地・五浦(いづら)海岸へと移します。電気も引かれていない寂寥たる海辺で、天心のもと、大観は年下の天才画家・菱田春草とともに極貧生活に耐えながら画技を磨き上げました。
突破口を求めて赴いたインド、アメリカ、ヨーロッパの巡回展では、現地の批評家から「東洋の霊妙な霧」「幻想的な光のシンフォニー」と大絶賛を浴び、逆輸入の形で日本国内の評価を覆していきます。しかし、最大の理解者でありライバルであった春草は、36歳という若さで病に倒れ急逝します。盟友を失った大観は、深い失意のなかで「春草が生きていれば、自分は春草に及ばなかった」と後年まで述懐し、早世した友の分まで日本画の変革を背負い続けることを誓ったのです。