梁塵秘抄の現代語訳と真相|後白河法皇が今様に狂った理由
なぜ院政の頂点に立ち、源平争乱の渦中にあった後白河法皇(1127〜1192年)が、自ら筆を執って膨大な今様を編纂したのか。その成立年代は治承3年(1179年)から文治元年(1185年)頃と推定されています。まさに平家打倒の令旨が下り、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した激動の極期です。
後白河法皇自身が著した『梁塵秘抄口伝集(巻第十)』には、常軌を逸した今様への執着が赤裸々に記されています。
「幼少の砌(みぎり)より今様を好みて、怠ることなし……十代のころは昼夜を分かたず歌ひ明かし、声が出なくなれば湯を飲み、喉を腫らしながらなお歌ひ続け、声を潰すこと三度におよべり」
法皇は10代の頃から50年以上にわたり、皇族としての体面を捨てて今様の修練に没頭しました。この異常な情熱の背景には、3つの決定的な理由が存在します。
- 激しい権力闘争による孤独と精神的カタルシス:保元の乱、平治の乱で肉親や側近が次々と処刑・失脚する中、法皇は常に暗殺や幽閉の危機に怯えていました。宮廷の虚礼から逃れ、本音の感情を叫ぶ手段が今様でした。
- 民衆芸能の霊力(呪術的エネルギー)の獲得:中世において歌や芸能は神仏を動かす呪術でした。法皇は民衆の生々しい声を自らの喉で響かせることで、国家鎮護と自身の延命を祈念したと分析されます。
- 師匠・乙前(おとまえ)への敬慕と芸能の集大成:法皇は70歳を過ぎた美濃の傀儡子(遊女芸人)出身の老女・乙前を御所に招き、師と仰いで徹底的に秘曲を伝授されました。乙前が亡くなった際、法皇は千手経を自ら書き写して冥福を祈り、散逸を防ぐために集大成の記録を決意したのです。