なぜ平安時代の貴族の服装は20Kgも重い?十二単の衝撃事実を徹底解説

なぜ平安時代の貴族の服装は20Kgも重い?十二単の衝撃事実を徹底解説に関する主要な事実を丁寧にまとめました。詳細な解説をチェックしましょう。

華やかな女性装束に目を奪われがちですが、平安時代の貴族服装男子の世界もまた、寸分の狂いも許されない厳格な階級ヒエラルキーに支配されていました。公卿から地下人(じげにん)に至るまで、宮中で着用できる衣装は身分とオフィシャル度によって明確に区分されていたのです。

まず押さえるべきは、束帯と衣冠の違いです。

「束帯(そくたい)」は、朝廷の重要儀式や昼間の公務に着用された男性の「最高正装(昼の装束)」です。下着である白小袖の上に単、あこめ、下襲(したがさね)を重ね、さらに裾を長く引く「尾(裾=きょ)」を取り付け、その上から表着である「袍(ほう)」を着て、漆を塗った革帯(石帯)で締め上げます。足元には浅沓(あさぐつ)を履き、手には笏(しゃく)、腰には魚袋(ぎょたい)や太刀を佩用(はいよう)する極めて形式主義的な武装形態を残した装束でした。

一方の「衣冠(いかん)」は、宮中での宿直(とのい)や夜間の勤務の際に、束帯の窮屈さを緩和するために考案された「略礼装」です。下襲の裾を省略し、袴も動きやすい指貫(さしぬき)に履き替え、帯も柔らかい共布の帯に替えるなど、大幅な機能的緩和が図られました。時代が下るにつれて昼間の執務でも着用が許されるようになり、貴族男性の標準的な勤務服へと定着していきます。

さらにプライベートや日常の活動領域においては、狩衣と直衣の格式の差が決定的な意味を持ちました。

「直衣(のうし)」は、「ただの衣」という意味を持ちながら、実は三位以上の公卿(大臣・大納言など)および殿上人にしか着用が許されない最高級の日常着でした。特徴的なのは、自分の身分に応じた「袍の色」の規制を受けず、天皇の勅許があれば禁色であっても自由に好きな色を着ることができた点です(これを「雑袍(ざっぽう)」と呼びます)。つまり、リラックスウェアでありながら着用者の血統と特権を証明する最高峰の贅沢着でした。

対する「狩衣(かりぎぬ)」は、もともと貴族が鷹狩りなどの野外活動を行うためのスポーツウェア・作業着でした。袖が身頃に完全に縫い付けられておらず、肩の後ろが開いて風を通す構造になっており、袖口に括り緒(くくりお)が通されているなど、極めて活動的なデザインです。平安時代中期までは下級貴族や従者の日常着でしたが、その動きやすさと軽快さから次第に上位貴族も私邸での平服として愛用するようになり、やがて儀礼化していきました。

そして、平安男性の装束において絶対に外せない最大の掟が、平安貴族の男性が烏帽子を脱がない理由です。当時の男性にとって、冠や烏帽子を外して頭頂部の「髻(もとどり)」を露出する行為(露頂=ろちょう)は、現代で言う全裸を人前に晒すこと以上の致命的な恥辱と見なされていました。『今昔物語集』などの説話集には、烏帽子を脱げ落とされた貴族が顔を覆って泣き叫び、恥辱のあまり出仕を拒絶して引きこもったり、斬り合いに発展したりする事例が多数記録されています。彼らにとって被り物は衣服の一部ではなく、社会的な人格そのものだったのです。

斉藤 蓮

斉藤 蓮

デジタルマーケティングコンサルタント

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。