島原「鯉の泳ぐまち」誕生の真相と歴史|なぜ街中に錦鯉?見どころ検証
透き通る水路を錦鯉が群れ泳ぐ優雅な光景を目にすると、「観光振興のために行政が主導して整備したスポット」と想像する人が少なくありません。しかし、島原の鯉の泳ぐまち誕生の経緯を辿ると、そこには昭和の高度経済成長がもたらした環境破壊と、町民たちの切実な闘いがありました。
島原市は古くから「水の都」と称され、1792年(寛政4年)の雲仙岳噴火と眉山の山体崩壊(島原大変肥後迷惑)に伴う地殻変動によって、市内各所に良質な地下水脈が開口しました。環境省の「名水百選」にも選定されている島原湧水群の歴史は、1日およそ20万トンとも推定される自噴水に支えられ、新町周辺の水路もかつては炊事や洗濯を支える生活の生命線でした。
ところが昭和40年代から50年代にかけて、人々の生活様式が一変します。プラスチックゴミのポイ捨てや生活排水の流入が増加し、かつて清水を湛えていた新町の水路は、一時期ヘドロが堆積し異臭を放つほどに荒廃しました。当時の地元紙や町内会の記録資料によると、「このままでは先祖から受け継いだ清流が完全に死んでしまう」という強い焦燥感が住民の間で共有されたと記録されています。
そこで1978年(昭和53年)、新町町内会と地元有志が立ち上がりました。「鯉の泳ぐまち なぜ 理由」という疑問の真相は、まさにここにあります。住民たちは水路の大規模な清掃・泥上げを実施したうえで、「清らかな水でしか生きられない錦鯉を放流すれば、住民も観光客もゴミを捨てなくなるはずだ」という逆転の発想に至ったのです。当初、有志の手によって放流されたのは約1,500匹の錦鯉でした。水路に鯉という「命の指標」を置くことで、住民自身の環境意識を劇的に向上させ、水質を保ち続ける仕組みを創り出したのです。