大谷吉継はなぜ敗軍の三成を選んだのか?病の真相と壮絶な最期
慶長5年9月15日、関ヶ原の決戦。大谷吉継は松尾山の北東麓に陣を構えました。すでに失明状態に近かった吉継は、輿に乗って指揮を執ったと伝えられます。彼が最も警戒していたのは、松尾山に陣取る小早川秀秋(金吾)の動向でした。吉継は秀秋の曖昧な態度から裏切りを事前に見抜き、秀秋が山を駆け下りてきた際に即座に対応できるよう、あらかじめ部隊を二重に配置していたのです。
正午過ぎ、家康の問鉄砲を受けた小早川軍1万5,000が松尾山を駆け下り、吉継の陣へ猛然と襲いかかりました。しかし、吉継隊は動じることなくこれを迎え撃ち、わずか数千の兵力で小早川軍を複数回にわたって押し戻すという驚異的な戦闘力を発揮します。
しかし、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら西軍の諸将が雪崩を打って東軍へ寝返ったことで戦況は一変。四方から敵包囲を受けた大谷隊は完全に壊滅へと追い込まれました。覚悟を決めた吉継は、側近の湯浅五助に介錯を命じて切腹します。享年42(一説に46)。
自害にあたり、吉継は五助に「病によって変わり果てた私の醜い首を、決して敵に渡してはならない」と厳命しました。五助は主君の遺言を守り、首級を戦場の深くに埋めて隠匿。その後、東軍の藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に捕らえられた際、五助は「自分の首を差し上げる代わりに、大谷刑部の首の埋め場所だけは決して口外しないでほしい」と懇願し、高刑はその武士の約束を守り通したとされます。現在、岐阜県不破郡関ケ原町に残る「大谷吉継陣跡」や滋賀県米原市の首塚などには、今も主従の強い絆と誇りを偲ぶ人々が絶え間なく訪れています。