おつやの方と織田信長の真実|岩村城女城主の壮絶な生涯と最期
信長にとって、東濃の要衝・岩村城の喪失と、肉親である叔母が敵将の妻となった事実は、戦略的にも面目上も看過できない大打撃でした。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を撃破した信長は、嫡男・織田信忠を総大将として岩村城奪還に乗り出します。
半年近くに及ぶ壮絶な包囲戦と兵糧攻めの末、孤立した秋山虎繁とおつやの方は、城兵の助命を条件に開城・降伏を申し出ました。信長はいったん降伏を受け入れる素振りを見せましたが、城門が開いた直後に態度を急変させます。
『信長公記』の記述によると、信長は降伏した将兵を厳しく処罰し、秋山虎繁、おつやの方を含む首謀者たちを岐阜へ連行。天正3年11月21日、岐阜の長良川河畔において「逆さ磔(さかさはりつけ)」という極刑に処しました。
信長が実の叔母に対してここまで苛烈な処刑を下した理由は、単なる領地の喪失だけでなく、以下の3点が重なったためと考えられています。
- 織田一門としての「裏切り」への見せしめ:親族であっても裏切りは絶対に許さないという恐怖支配の誇示。
- 後継者・御坊丸を武田へ人質として差し出した責任:織田家の血を引く男子を敵国へ送ったことへの激しい怒り。
- 東濃国衆への牽制:武田と織田の境界で揺れ動く国人領主たちに対し、寝返りの代償を徹底的に思い知らせる必要性。