ミセス「ケセラセラ」歌詞の意味とは?大森元貴が託した祈りと真実

ミセス「ケセラセラ」歌詞の意味とは?大森元貴が託した祈りと真実とはどんな影響があるのか? 背景や要点を丁寧に紐解いて紹介します。

一般に「ケセラセラ(Que Sera, Sera)」と聞くと、多くの人が「なるようになるさ」「明日は明日の風が吹く」といった、肩の力を抜いた気楽な運命論を連想します。この言葉が世界的に広まった契機は、1956年に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『知りすぎていた男』で、女優ドリス・デイが歌った劇中歌『Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)』でした。

言語学的な観点から言えば、このフレーズは純粋なスペイン語の文法としては成り立っていません。正統なスペイン語であれば「Lo que será, será」などと表現されるべきところを、英語圏の作詞家たちが語感の響きを重視して作った混成語(ピジン的表現)が定着したと伝えられています。歴史的文脈におけるケセラセラは、「未来の出来事は人間の力ではどうにもならないのだから、悩んでも無駄だ」という、受動的かつ運命論的な諦念を内包していました。

Mrs. GREEN APPLEのフロントマンであり、全楽曲の作詞・作曲を手掛ける大森元貴は、この使い古された言葉のベクトルを180度転換させました。楽曲内で提示されるケセラセラは、決して「成り行き任せの楽観」ではありません。現実に打ちのめされ、限界を迎えそうな人間が、歯を食いしばって自らを奮い立たせるための「血の通った能動的な宣戦布告」なのです。この鮮烈な解釈の転換こそが、現代社会を生きる老若男女の琴線を揺さぶった最初の仕掛けと言えます。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。