写楽と歌麿の決定的な違いとは?蔦重の戦略と謎多き正体の真相

写楽と歌麿の決定的な違いとは?蔦重の戦略と謎多き正体の真相とはどんな影響があるのか? 主要なファクトを丁寧に紐解いて紹介します。

写楽を語る上で最大のミステリーとされてきたのが、東洲斎写楽の正体と写楽がなぜ消えたのかという理由です。デビューした寛政6年5月から、最後の第4期作品が出された寛政7年(1795年)1月までの期間は、実質わずか10ヶ月。作品数にして約140点を残し、写楽は浮世絵界から完全に姿を消しました。

彼が消えた第一の理由は、商業的な大敗退にありました。同時代の考証学者・大田南畝が『浮世絵類考』で「あまりに真を描かんとて、あらぬさまに描きなせしかば、長く世に行われず」と記した通り、写楽の描いた役者絵はあまりにもリアルすぎました。当時の役者絵は、現代のアイドルのプロマイドと同じです。ファンが求めていたのは贔屓役者の美化された勇姿であり、欠点を容赦なくデフォルメした作品は贔屓筋から激しい怒りを買いました。第1期の大首絵こそ蔦重の仕掛けによって耳目を集めたものの、全身図へと移行した第2期、背景が簡略化された第3期・第4期と進むにつれ、作風は急速に生彩を欠き、売り上げは惨憺たるものになっていったのです。

そして、かつては美術界最大の謎とされた正体について、現在では阿波徳島藩の蜂須賀家に仕えた能役者・斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)であることがほぼ確実視されています。当時の人名録『諸家人名江戸方角分』に「写楽斎 地紙売八丁堀に住す」という記載があり、八丁堀に阿波徳島藩の長屋が存在していたこと、さらに徳島市の法光寺の過去帳から「斎藤十郎兵衛」が文政3年に没した記録が発見されたことで、長年の謎に終止符が打たれました。

能役者という本業を持っていたからこそ、写楽は生活のために浮世絵を描き続ける必要がありませんでした。蔦重の実験的プロジェクトに請われて筆を執ったものの、市場の需要と乖離して商業的に立ち行かなくなった時点で、潔く本業の世界へと戻っていった――これが、忽然と姿を消した天才の偽らざる真相です。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。