支倉常長が挑んだ慶長遣欧使節の真実!ローマ謁見と帰国後の悲劇の真相

支倉常長が挑んだ慶長遣欧使節の真実!ローマ謁見と帰国後の悲劇の真相の基本情報から最新動向までを一挙に解説しました。

支倉常長一行は、数々の苦難を乗り越えて1615年11月3日、バチカン宮殿にてローマ教皇パウロ5世との公式謁見を果たしました。常長は堂々たる立ち居振る舞いで伊達政宗の親書を手渡し、教皇から「ローマ市公民権証書」を授与されるなど、外交使節として最高の栄誉に浴しました。

しかし、常長が地球の裏側で華々しい歓待を受けていたまさにその頃、日本国内の政治状況は暗転していました。徳川家康は1614年に「元和の禁教令」を発令し、全国的なキリシタン排除を加速させていたのです。

常長がマドリードやローマで求めた「貿易協定」と「司教の派遣」に対し、スペイン国王フェリペ3世は極めて冷淡でした。幕府がキリスト教を弾圧しているという情報がすでにマニラ経由でヨーロッパ首脳部に伝わっており、「日本側と友好通商を結ぶ利益はない」と判断されたためです。

1620年、失意のうちに仙台へ帰国した常長を迎えたのは、かつて大航海を命じた主君・伊達政宗の苦渋に満ちた方針転換でした。幕府への配慮から政宗もキリシタン弾圧を余儀なくされており、常長が命がけで持ち帰った親書や教皇像、洗礼の栄誉は、すべて表舞台から隠蔽されなければならない「危険な禁制品」と化したのです。

帰国からわずか2年後の1622年、常長は失意と過労のなか52歳で病没しました。さらにその後、常長の嫡男・支倉勘十郎がキリシタン召し抱えの嫌疑をかけられて処刑され、支倉家は一時断絶の憂き目に遭うという、あまりに過酷な結末を迎えることとなりました。

橋本 菜々子

橋本 菜々子

トレンドリサーチャー

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。