後鳥羽上皇はなぜ隠岐へ流されたのか?承久の乱の真相と壮絶な最期

後鳥羽上皇はなぜ隠岐へ流されたのか?承久の乱の真相と壮絶な最期の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点で紐解きます。

承久3年(1221年)8月、出雲国(現在の島根県)から海を渡った後鳥羽上皇は、隠岐諸島のうち「島前(どうぜん)」に位置する中ノ島(現在の島根県隠岐郡海士町)に上陸しました。都の絢爛豪華な御所から一変し、粗末な行宮(仮の住まい)での生活を余儀なくされた上皇でしたが、その精神まで屈服させることは幕府にもできませんでした。

島での生活における上皇の行動で特筆すべきは、作刀と文化活動への飽くなき執念です。上皇は在位中から刀剣をこよなく愛し、諸国の名工を交代で召し抱える「御番鍛冶(ごばんかじ)」の制度を創設していました。配流先の隠岐においても、砂鉄や良質な水が手に入る環境を利用し、自ら槌を振るって刀を鍛え上げたと伝えられています。上皇が鍛造し、皇室の紋章である十六弁八重表菊の銘を刻んだ刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、名刀として現代でも国宝・重要文化財に指定されています。

さらに、都から遠く離れた地でありながら、和歌への情熱も衰えませんでした。自らの代表的事業であった『新古今和歌集』の改訂作業を続け、自身の美意識に合わない歌を削り、新たな歌を補入した「隠岐本新古今和歌集」を完成させました。嘉禄元年(1225年)には、島で詠んだ歌を集めた『遠島御歌合(えんとうみうたあわせ)』を編纂。わずかな側近や島民とも交流を持ちながら、歌壇の主宰者としての威厳を絶海の孤島でも誇示し続けたのです。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。