徳川慶喜の死因は急性肺炎?歴代最長寿を誇る最後の将軍の最期
慶応3年(1867年)の大政奉還によって政権を朝廷に返上した慶喜は、戊辰戦争を経て一時は賊軍の首魁とされましたが、明治31年(1898年)に明治天皇に初めて拝謁を許され、公式に名誉回復を果たしました。
さらに明治35年(1902年)には、徳川宗家(徳川家達が継承)とは別に、新たに「徳川慶喜家」を創設することを許され、華族の最高位である公爵に叙任されました。これにより貴族院議員にも就任し、晩年には帝国議会へ登院する姿も見られました。
慶喜は子宝にも恵まれ、側室との間に10男11女(計21人)をもうけました。彼の子孫たちは名門華族や旧藩主家、さらには皇室へとつながる婚姻を結び、日本の近代社会において重要な役割を果たしていくことになります。
代表的な例として、慶喜の孫にあたる徳川喜久子(慶喜の七男・徳川慶久の娘)は、昭和天皇の弟である高松宮宣仁親王に嫁ぎ、皇室の一員となりました。幕末に朝敵とされた徳川将軍家の血筋は、時代を経て皇室と深く結びつくことになったのです。