太宰治の死因と最期の真相|玉川上水心中・他殺説と遺書の全貌
昭和23年(1948年)6月13日午後11時半頃、太宰治は三鷹の仕事場兼住居近くにあった愛人・山崎富栄の部屋を出て、玉川上水(東京都武蔵野市・三鷹市境付近)へ向かいました。これが太宰が公の場に姿を見せた最後の瞬間となります。
当時の玉川上水は梅雨の豪雨によって水深が約2メートル、流速も極めて早く、一度足を取られれば自力で這い上がることは不可能な「人喰い川」と呼ばれる難所でした。太宰と富栄はお互いの体を赤色の帯(上製絹の腰紐)で固く結び合い、草むらから濁流へと身を躍らせました。
入水から6日後の1948年6月19日早朝、現場から約1キロ下流の新橋付近で二人の遺体が浮上し、捜査当局と消防団によって引き揚げられました。遺体発見日である6月19日は奇しくも太宰の39回目の誕生日であり、後に太宰の短編小説にちなんで「桜桃忌(おうとうき)」と名付けられ、現代も多くの文学ファンが追悼に訪れる記念日となっています。
警視庁三鷹警察署の検視調書によると、太宰の遺体に目立った外傷や毒物の痕跡はなく、肺に大量の水が入ったことによる典型的な水死(溺死)と判定されました。太宰治の死因 詳細まとめとして医学的・警察鑑識的に見ても、入水に伴う窒息溺死であった事実に揺らぎはありません。