金日成とは何者だったのか?偽者説と急死の真相、朝鮮戦争の闇を暴く
金日成の政治的野心が生み出した最大の悲劇が、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争です。長年、北朝鮮側は「米帝国主義と南朝鮮傀儡軍による奇襲侵略に反撃した祖国解放戦争」と主張し続けてきましたが、旧ソ連の外交公電が白日の下に晒された現在、その朝鮮戦争の経緯は完全に白黒がついています。
1949年から1950年にかけて、金日成はモスクワのスターリンと北京の毛沢東のもとを何度も極秘裏に訪れ、軍事援助と南侵作戦への承認を執拗に求めました。当初はアメリカとの全面戦争を恐れて慎重だったスターリンも、1950年1月のアチソン声明(アメリカの防衛ラインから台湾と朝鮮半島を除外する声明)や中国共産党の中国本土制覇を受け、作戦計画を最終承認しました。周到な奇襲によって始まった戦争は、米軍を中心とする国連軍の仁川上陸作戦によって逆転され、一時は平壌を奪われて中国国境付近まで敗走する壊滅的危機に直面します。最終的に中国人民志願軍の参戦によって休戦ライン(軍事境界線)まで押し戻したものの、朝鮮半島全土を焦土と化し、数百万人もの同胞を死に追いやる結果となりました。
この壊滅的敗北の責任をすべて政敵へと転嫁することから、金日成による凄惨な粛清の歴史が幕を開けます。
- 南労党(南朝鮮労働党)派の殲滅(1953〜1955年):戦争勃発時に「南侵すれば南の20万人の党員が蜂起する」と進言した副首相兼外相の朴憲永らを「米国のスパイ」「戦争挑発者」としてでっち上げ、裁判にかけて処刑。
- 延安派・ソ連派の追放(1956年の「8月宗派事件」):スターリン批判に同調し、金日成の個人崇拝と重工業偏重路線を批判した親中国派(延安派)および親ソ連派の幹部を一斉に党から除名・投獄。脱党・亡命を余儀なくさせました。
- 甲山派の排除(1967年):最後まで残っていたパルチザン時代の国内派同志(甲山派)を資本主義的偏向を理由に粛清。
こうしてあらゆる党内反対派を物理的に抹殺した金日成は、マルクス・レーニン主義の看板を掛け替え、自らを絶対神とする主体思想(チュチェ思想)を体系化しました。外部の思想的干渉を完全に断ち切った平壌は、近代国家とは名ばかりの絶対君主制へと変質していったのです。