丹波哲郎の死因と大霊界の真相|007と息子・丹波義隆の現在を徹底検証
丹波哲郎の役者人生は、破格のエピソードで埋め尽くされています。成城学校から中央大学法学部へ進み、劇団文化座を経て新東宝に入社。映画出演数は300本以上にのぼり、そのうち外国映画が10本含まれるなど、当時の日本人俳優としては群を抜く国際派でした。
1967年公開の映画『007は二度死ぬ』で、英国情報部員ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)を支える日本の情報機関トップ、タイガー田中役に抜擢された際のエピソードは有名です。流暢な英語力はもちろんのこと、大物プロデューサーに対しても全く物怖じせず、ロケ現場では主演のコネリーと対等に渡り合いました。監督が過密なスケジュールで指示を出しても、「今から昼寝の時間だから撮影は後だ」と言い放ち、スタッフを唖然とさせたという逸話が残っています。
また、1975年から1982年まで放送されたTBS系刑事ドラマ『Gメン'75』では、警視庁の黒木警視正役として全355話に君臨。最高視聴率は32.2%を記録し、滑走路をロングコートの捜査員たちが並んで歩くオープニングはテレビ史に残る伝説となりました。この撮影時にも、「台詞は一切覚えない。現場に大きなカンペ(掲示板)を用意しろ」と指示し、カンペを読みながら完璧な演技と眼力で共演者を圧倒した話は、後進の俳優たちによって語り継がれています。
丹波プロダクションおよび俳優養成所「丹波道場」からは、特撮ヒーロー界のレジェンドとなる宮内洋をはじめ、多くの個性派俳優が育ちました。丹波の教育方針は「小手先の技術ではなく、人間としての器を磨け」というもの。弟子たちに飯を食わせ、現場での度胸を身につけさせる姿勢は、昭和の映画界ならではの親分肌そのものでした。