武市半平太の生涯と切腹の真相|龍馬・以蔵との関係と逸話を徹底解明
文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」によって長州藩を中心とする尊皇攘夷派が京都から一掃されると、土佐藩主・山内容堂は手のひらを返したように勤王党への弾圧を開始しました。同年9月、武市は捕縛され、南会所の下屋敷に投獄されます。
1年9ヶ月の沈黙と死罪の決定的理由
獄中において、武市は実に1年9ヶ月(約630日)にわたる長期の厳しい尋問を受けました。以蔵らの自白によって吉田東洋暗殺の実行犯が次々と判明していく中、武市本人は拷問に屈することなく、東洋暗殺への関与を一貫して完全否認し続けました。
藩の司法当局は、ついに東洋暗殺の直接的・法的証拠を武市本人から引き出すことができませんでした。しかし、慶応元年(1865年)閏5月11日、容堂が下した最終判決は「君前を軽侮し、私党を結成して藩政を壟断した不敬罪」という名目での切腹処分でした。藩主権力を脅かす下士集団の存在そのものを根絶やしにするという、冷徹な政治的決断による断罪でした。
武士の誇りを刻んだ前代未聞の最期
宣告を受けた武市は、取り乱すことなく従容として死を受け入れました。そして執行の場において、日本武士道史上でも極めて稀な「三文字切腹」を敢行します。
通常の切腹は、刃を腹に突き立てた瞬間に介錯人が首を落とすのが通例でした。しかし武市は、腹を左から右へ水平に一文字に切り裂いた後、さらに刃を返して上下に二筋、計三本の深い切り口を自らの手で刻み込みました。臓腑が露出するほどの激痛に耐え、背筋を伸ばしたまま一切のうめき声を上げず、完全に切り終えたのを見届けてから介錯人の太刀を受けたと記録されています。
この壮絶極まる最期は、検死役や立ち会った藩士たちを戦慄させ、最後まで罪を認めず「自らの身の潔白と武士としての誇り」を主君・山内容堂に突きつけた無言の抗議となりました。