なぜ栃木市ではなく宇都宮?栃木県庁移転の歴史と驚きの政治的真相
なぜ一度は栃木町に置かれた県庁が、わずか11年後の明治17年(1884年)に移転されることになったのか。その裏側には、強権的な統治スタイルで知られた薩摩出身の内務官僚・三島通庸(みしま みちつね)の着任と政治対立がありました。
当時、栃木町を中心とする県南部は、豪商や地主層を後ろ盾とした自由民権運動の強固な拠点となっていました。県議会(栃木県会)では民権派議員が多数を占め、政府の増税路線や官選知事の施策に対して激しい抵抗運動を展開。明治16年(1883年)に県令として送り込まれた三島は、この民権派の気勢を削ぎ、反抗的な勢力を分断・抑圧する方策を模索していました。
そこで三島が断行したのが、自らの息がかかりやすい宇都宮への県庁移転です。政治的な反対派の地盤であった栃木町から行政機能を奪い去ることで、民権派への大打撃を狙いました。実際にこの移転決定は激しい反発を呼び、同年には激化事件として知られる「加波山事件」へ発展する引き金の一つともなっています。
移転の動機は政治的弾圧だけにとどまりません。当時計画が進められていた日本鉄道(現在のJR東北本線・宇都宮線)の建設計画において、宇都宮が主要ルートとして位置づけられていたこと、さらに奥州街道沿いの軍事・交通の要衝であった点など、実利的な近代化戦略も合致していました。政治的意図とインフラ戦略の双方が合わさり、宇都宮への移転が強行されたのです。