八丈島に生きた宇喜多秀家の真実|流罪の理由と豪姫の絆・現在の子孫

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八丈島へ上陸した秀家を待ち受けていたのは、風雨吹き荒れる厳しい自然と、慢性的な飢餓に苦しむ孤島の過酷な現実でした。大名時代の贅沢な装束を脱ぎ捨て、名を「久福(きゅうふく)」と改めた秀家は、粗末な小屋で島民と同じように甘藷(サツマイモ)や雑穀を口にし、魚を釣って食いつなぐ生活を強いられたと島内の伝承は伝えています。

島民の手記や古文書の記録によれば、秀家は島に漂着した他藩の武士から「かつての五大老が飢えに苦しんでいる」と見かねておにぎりを恵まれたという逸話(福島正則の旧臣との接触談など)が残るほど、一時は極貧の状態に陥っていました。しかし、彼がそのまま野垂れ死ぬことはありませんでした。絶海の夫を救ったのは、金沢の地で夫を想い続けた正室・豪姫の執念でした。

豪姫は兄の利長、そして弟の前田利常へ働きかけ、幕府の特別な許可を取り付けることに成功します。こうして始まったのが、加賀前田家から八丈島へ向けた隔年の仕送り支援物資でした。加賀藩史料などに残る記録によると、送られた物資は以下のように極めて破格かつ実用的なものでした。

  • 白米・大豆:数百俵規模の主食(島では極めて貴重だった白米)。
  • 衣類・反物:加賀絹、綿、下着類、防寒具。
  • 金銀・貨幣:島内での融通や島民への謝礼、生活基盤整備のための現用金子。
  • 医薬品・嗜好品:高級生薬、加賀の地酒、味噌、醤油、調味料類。

この前田家からの支援船は、嵐で船が難破しない限り、2年に1度のペースで定期的に八丈島へと渡りました。しかもこの仕送りは、秀家本人が亡くなった後も、なんと幕末の明治維新に至るまで約260年間、前田家から八丈島の宇喜多一族(浮田家)へと途絶えることなく送られ続けたのです。この盤石な後方支援があったからこそ、秀家は心身の健康を保ち、当時としては奇跡的ともいえる享年84歳(明暦元年・1655年没)という大往生を遂げることができました。死因は激しい病苦ではなく、老衰であったと伝えられています。

鈴木 陽菜

鈴木 陽菜

テックライター兼ウェブディレクター

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