新選組幹部・平山五郎の凄惨な最期と真実!芹沢鴨暗殺と隻眼剣客の謎
文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の警護を名目に結成された浪士組に応募した平山は、芹沢鴨、新見錦、平間重助、野口健司らとともに京都に残留しました。これが後の新選組となる「壬生浪士組」の旗揚げです。
会津藩御預かりとなった浪士組において、平山は副長助勤の要職に就任。筆頭局長となった芹沢を軍事・警備の両面で支える事実上の筆頭護衛役を務めました。試衛館派を率いる近藤勇や土方歳三らとも肩を並べる立場であり、初期浪士組の最高幹部として京都所司代や町奉行所との折衝にも関与しています。
当時の壬生浪士組は、芹沢率いる水戸派と、近藤を中心とする試衛館派の連立政権でした。武術と胆力に長けた平山五郎の存在は、近藤派にとって最大の脅威であり、芹沢体制を維持するための強固な防壁として機能していたのです。