白地に赤の真相とは?日の丸が辿った知られざる歴代変遷の全貌
日本人が太陽を自らの象徴として意識した原点は、飛鳥時代にまで遡る。聖徳太子が随の皇帝に送った「日出ずる処の天子」という国書はあまりにも有名だが、この太陽信仰が具体的な視覚シンボルとして旗に現れるまでには数百年を要した。
中世の合戦絵巻を見ると、興味深い事実が浮かび上がる。源平合戦において、平家は「赤地に金丸」を掲げ、源氏は「白地に赤丸」を掲げて戦った。源氏が勝利を収めて鎌倉幕府を開いて以降、白地に赤の「日章」は勝者と正統性の証として武家社会に定着していく。足利尊氏や織田信長、徳川家康といった名だたる武将たちも、自らの軍旗や陣幕に好んで日章旗を取り入れた。
しかし、当時のそれは国家の旗ではない。あくまで武家一門や特定の軍団を識別するための軍記号に過ぎなかった。「国家を代表する旗」という概念そのものが存在しなかった封建社会の日本において、日章が全土の共通旗へと昇格する契機は、外からの圧倒的な外圧だった。