なぜ愛媛から傑物が続出したのか?正岡子規・秋山兄弟の知られざる真実
松山ゆかりの偉人だけでなく、東予や南予の地にも、近代日本の骨格を造り上げた指導者が点在しています。
住友財閥を支え抜いた広瀬宰平の決断
新居浜市に位置する別子銅山は、住友グループの発展を支えた大動脈でした。明治維新の混乱期、新政府による接収や経営難で閉山の危機に直面した際、全責任を背負って存続を勝ち取ったのが広瀬宰平です。広瀬は、伝統的な採掘法に固執する古参の山師たちの猛反発を抑え込み、フランス人技師ルイ・ラロックを破格の待遇で招聘。蒸気機関の導入や山岳鉱山鉄道の敷設など、日本最先端の産業革命を四国の険しい山中で成し遂げました。
煙害問題に直面した際には、後継の伊庭貞剛とともに製錬所の沖合移転や広大な植林事業を推進し、現代でいう企業の社会的責任(CSR)の嚆矢となる環境保護政策を実行しました。現在の新居浜市が国内有数の臨海工業都市として機能している背景には、広瀬の先見的な国土開発哲学が存在します。
民族の壁を越えた名将・近藤兵太郎と台湾・嘉義農林
愛媛県出身のスポーツ界の偉人として、2010年代以降に再評価が急速に進んだのが近藤兵太郎です。松山商業を甲子園初出場に導いた名将は、1928年に請われて日本統治下の台湾・嘉義農林学校野球部監督に就任しました。当時の台湾球界は日本人主体のチームが常勝とされていましたが、近藤は先入観を一切排し、日本人、漢民族(台湾人)、台湾原住民(高砂族)の混成チームを編成しました。
「足の速い原住民、打力の強い漢民族、守備の固い日本人」という各民族の身体的・文化的特性を適材適所で融合させ、徹底的なノックと走塁練習で鍛え上げた結果、嘉義農林(KANO)は1931年夏の甲子園で準優勝という快挙を成し遂げます。映画化もされたこの史実は、差別や偏見が根強かった戦前の社会において、スポーツの合理性と人間尊重の姿勢で奇跡を起こした実例として、台湾と日本の双方で今も高く称えられています。