横浜中華街の歴史と誕生の真相!世界最大級へ至る160年の軌跡
横浜中華街の起源を紐解く鍵は、1859年(安政6年)の横浜開港にあります。日米修好通商条約の締結に伴い、江戸幕府は横浜村の沿岸部に外国人居留地を造成しました。当時、進出してきた欧米の貿易商社は深刻な問題に直面していました。日本語が一切通じず、商習慣も通貨制度も全く異なる日本において、直接取引を行うことは極めて困難だったのです。
そこで欧米商人が香港や上海から同伴してきたのが、中国語と英語を巧みに操り、漢字を用いた筆談で日本人と意思疎通ができた中国人商人たちでした。彼らは「買弁(ばいべん=コンプラドール)」と呼ばれ、貿易実務、為替決済、商品の品質鑑定から物資の調達に至るまで、居留地貿易の根幹を支える不可欠なビジネスパートナーとして機能しました。
居留地の造成にあたり、幕府は低湿地であった入り江を埋め立てて造成した「横浜新田」を居留地用地(現在の山下町一帯)として割り当てました。西洋人が海岸寄りの一等地に大商館を構えたのに対し、中国人たちはその背後の内陸側に居住区を形成していきます。初期の華僑コミュニティは、欧米商社に雇用された買弁だけでなく、彼らを支える両替商、貿易仲立人、さらには仕立屋(洋服の裁縫)や理髪師、家具職人といった技能工たちで構成されていました。
当時の記録を保管する横浜開港資料館の史料によると、開港直後の1860年代初頭にはすでに千人規模の清国人が居住していたと記録されています。出身地は圧倒的に広東省が多く、次いで福建省や上海近郊の出身者が集まりました。彼らが故郷の信仰と相互扶助の仕組みをこの地に持ち込んだことが、今日の横浜中華街の骨格を決定づけることになります。