あさが来たモデル広岡浅子の生涯!ドラマとの違いや五代友厚の真相
広岡浅子の真骨頂は、一度掴んだ危機対応のノウハウを、次なる近代産業へと転換していくダイナミックな構想力にありました。炭鉱事業を成功させて莫大なキャッシュフローを生み出した浅子は、旧態依然とした両替商から脱却し、1888年(明治21年)に加島銀行を設立。近代的な銀行経営へと見事に業態転換を果たします。
さらに浅子の視線は生命保険事業へと注がれました。1902年(明治35年)、加島屋系列の「朝日生命(※現在の朝日生命とは別法人)」を中心に、「護国生命」「北海生命」の3社が合流して大同生命保険が誕生します。この「大同」という名称には、「小異を捨てて大同につく」という浅子らの理念が込められており、浅子は創業の主要発起人として実質的な経営基盤を確立しました。大同生命の源流には、浅子の卓越したリスクマネジメントと相互扶助への思想が脈々と流れています。
そして実業で確固たる地位を築いた浅子が、晩年最大の情熱を傾けたのが女子高等教育の推進でした。教育者・成瀬仁蔵の著書『女子教育』に激しく共鳴した浅子は、成瀬を物心両面で支援。当時、女性が高等教育を受けることに対して世間の風当たりは極めて冷淡でした。浅子は内閣総理大臣経験者の伊藤博文や、日本資本主義の父・渋沢栄一など、名だたる政財界の重鎮のもとへ自ら足を運び、寄付金の集金と説得を敢行。こうして1901年(明治34年)、日本初の組織的な女子高等教育機関である日本女子大学校(現在の日本女子大学)が開校したのです。