普仏戦争とは?大国フランス惨敗の真相とビスマルクの罠を徹底解説
皇帝ナポレオン3世が捕虜となった後も、新設されたフランス国防政府は降伏を拒否し、首都パリに籠城して抵抗を続けました。プロイセン軍はパリを完全包囲。市民は飢餓と寒波に晒され、動物園の動物やネズミまで食糧にする過酷な籠城戦を強いられます。
戦争の趨勢が完全に決した1871年1月18日、ビスマルクはフランス人のプライドを最も傷つける演出を実行に移しました。かつてルイ14世がフランスの威光を示したヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」において、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を敢行したのです。ここに北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦が正式に融合し、ドイツ帝国(カイザーライヒ)が誕生しました。
一方、1871年1月28日に国防政府が結んだ休戦協定に激怒したパリの民衆や労働者、国民衛兵は蜂起し、同年3月に史上初の労働者による自治政府パリ・コミューンを樹立しました。しかし、ヴェルサイユに逃れたフランス臨時政府はプロイセン軍の支援・黙認を取り付けてパリへ逆侵攻。1871年5月下旬の「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦によって、コミューン側は約2万人とも言われる戦死者・処刑者を出して壊滅しました。
講和条約であるフランクフルト条約において、フランスは50億フランの巨額な賠償金の支払いを科されただけでなく、鉱工業の重要拠点であったアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲することとなりました。この屈辱的措置は、作家ドーデの短編小説『最後の授業』の題材としても後世に語り継がれています。