広島カープの意味と由来を徹底解剖!鯉の名に込められた復興の歴史
広島カープの誕生には、親会社に依存しない「手作りの市民球団」ならではの劇的な人間ドラマが存在しました。
1949年の球団創立時、命名の主導権を握った中心人物のひとりが、初代球団代表を務めた谷川昇氏です。当時の広島県知事・楠瀬常猪氏や中国新聞社の幹部らが集う協議の席において、候補には「広島ブラックベアーズ」や「広島レインボー」といったアメリカ風の名称も挙がっていました。しかし、谷川氏は強く主張しました。「他所の真似事ではない、広島の歴史と心を背負った名前でなければ市民はついてこない」。
谷川氏が挙げたのが、まさに「鯉城」と「太田川の鯉」、そして「登竜門」でした。当時の球団関係者の回想録によると、「原爆で打ちのめされた街に、再び気骨ある若者たちが集まり、急流を遡ってやがて大空へと羽ばたく。それには鯉以外にない」という熱のこもった説得が満場一致の決定打になったと記録されています。
その後、1968年に東洋工業(現マツダ)が経営参画したことで「広島東洋カープ」と改称されますが、根幹である「カープ」の文字が外されることは決してありませんでした。
そして、球団史を語る上で欠かせないもうひとつの象徴が、昭和50年(1975年)の初優勝時に誕生したマスコットキャラクター「カープ坊や」です。
当時、プロ野球の球団マスコットといえば実写の動物調のイラストが主流でした。しかし、デザイナーの今井金也氏が手掛けたカープ坊やは、丸顔の少年が真一文字に口を結び、バットを構える愛くるしいビジュアルとして誕生しました。「子供たちに夢を与え、家族全員で応援できる球団にしたい」という意図から生み出されたこのキャラクターは、日本プロ野球界における球団キャラクターグッズの先駆けとなり、半世紀を経た現在も変わらぬデザインで市民から熱狂的な支持を集めています。