丸山明宏と美輪明宏の真実|改名理由と三島由紀夫を魅了した軌跡
進退窮まった青年が活路を見出したのが、当時最先端の文化サロンとして銀座に君臨していたシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」でした。1952年、銀巴里の専属歌手募集に応募し、国籍・年齢・性別を問わないオーディションを実力一本で突破。ステージに立った丸山明宏は、類まれな美貌と中性的なファルセットを響かせ、瞬く間に銀座の夜を席巻していきます。
当時の銀巴里には、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一といった時代の最先端を行く文化人が連夜集い、その中心にいたのが作家の三島由紀夫でした。三島は自著や対談において、丸山明宏を「天上界の美」「君の唯一の欠点は、僕が君に惚れていないことだ」と最大級の賛辞で激賞。二人の関係は単なる知己を超え、知性と美が火花を散らす共犯関係へと昇華していきました。
1957年、22歳のときにフランスのシャンソンを日本語詞でカバーした『メケ・メケ』をリリース。紫やピンクのサテンシャツを身にまとい、流し目を送りながら歌い踊る姿はメディアに衝撃を与え、「神武以来の美少年」というキャッチコピーとともに一大ブームを巻き起こしました。自伝『紫の履歴書』にも記されている通り、この熱狂の最中、自身が同性愛者であることを隠さずオープンに公言。昭和30年代の極めて保守的な社会通念から猛烈なバッシングを浴び、レコードの売上急減や舞台の降板など、人気は一気に冬の時代へと突入します。