徳川家康のしかみ像は嘘?三方ヶ原の敗戦神話と肖像画の真相を暴く
元亀3年(1572年)、遠江国で勃発した三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康は武田信玄の軍勢に挑み、手痛い大敗を喫しました。命からがら浜松城へ逃げ帰った家康が、恐怖に怯える自身の無様な姿を忘れないよう、即座に絵師を呼び寄せて自戒のために描かせた――これが、数十年にわたり定説と信じられてきた「しかみ像 描かせた理由」のあらすじです。
だが、このドラマチックな逸話には決定的な矛盾が存在します。同時代の一次史料や江戸時代初期の記録をいくら精査しても、家康が戦場から生還した直後に自らの姿を描かせたという記録は皆無です。家康の生涯を詳細に記した公式記録『徳川実紀』にも、敗戦直後の肖像画制作に関する記述は影も形もありません。
火付け役となったのは、作品を収蔵する徳川美術館の研究員・原史彦氏による2015年の調査論文でした。尾張徳川家に伝来した道具帳や目録を遡ると、江戸時代を通じて本作は単に「東照宮尊影」や「御肖像」と記録されているのみであり、三方ヶ原の敗戦と結びつける文脈は18世紀末まで一切確認できませんでした。
では、あの劇的なストーリーはいつ誕生したのか。驚くべきことに、「三方ヶ原で敗れた直後の苦悶を描かせた自戒の像」という物語が活字として公になったのは、1936年(昭和11年)に開催された展覧会の解説および当時の新聞報道が最初でした。近代日本のナショナリズムの高まりや、尾張徳川家第19代当主・徳川義親によるコレクション公開の過程で、後付けのロマンチックな解説が事実として独り歩きを始めたのです。