島崎和歌子が感謝祭を絶対降板しない理由!35年の司会力とギャラの真相
島崎和歌子が『オールスター感謝祭』の初代司会に抜擢されたのは、1991年秋、彼女がまだ18歳のアイドル時代でした。当時、深夜番組などで頭角を現していた彼女の素質を見抜いたのが、番組の立ち上げMCを務めた島田紳助です。
当時の特番インタビューや関係者の手記によると、紳助が女性パートナーに求めた条件は「自分のプライドを前に出さず、急なフリに対して素直にリアクションが取れ、どんなにいじっても角が立たない明るさ」でした。当時の一流女優や気鋭のアナウンサーではなく、高知県出身で飾らない人柄を持っていた10代の島崎和歌子を選んだ紳助の眼力は、番組のその後の運命を決定づけました。
紳助時代の20年間(1991年秋~2011年春)で、島崎は「猛獣使いの隣に立つ絶対的な安全弁」としての役割を確立しました。紳助がスタジオの空気を極限まで緊張させた際にも、島崎の明るい笑い声と屈託のないツッコミが緩衝材となり、スタジオの空気が険悪になるのを防ぎ続けたのです。
そして2011年秋の紳助電撃引退という最大の危機を経て、2012年春から本格スタートしたのが今田耕司・島崎和歌子体制です。この移行期について今田耕司はバラエティ番組で「和歌子ちゃんが横にいてくれたからこそ、あの重圧に耐えられた。彼女が進行の全責任を背負ってくれているから、自分は自由に芸人としてスタジオを回せる」と語っています。紳助時代の「緊張と緩和」から、今田時代の「スピード感と一体感」へと番組のカラーが変化するなかでも、島崎和歌子の存在感は微動だにしませんでした。