羽田孜はなぜ64日で退陣したか?省エネルックと政治改革の真相
政治家・羽田孜を語る上で避けて通れないのが、長年にわたる小沢一郎氏との二人三脚の関係性です。二人はかつて自民党最大派閥であった田中派(のちの竹下派)に属し、橋本龍太郎氏や小渕恵三氏らとともに「竹下派七奉行」の一角として将来を嘱望されていました。
竹下派の分裂期、羽田は小沢とともに派閥を離脱し、改革フォーラム21を旗揚げします。そして1993年、宮澤喜一内閣に対する不信任案に賛成票を投じ、自民党を集団離党。新生党を結成して党首に就任しました。実質的な差配を握る小沢氏が幹事長(代表幹事)を務め、国民的人気と温厚な人柄を持つ羽田氏がトップに座る構図は、「剛腕と誠実のハイブリッド」として国民から熱狂的な支持を集めました。
しかし、この二頭体制は常に危うさを孕んでいました。政権奪取のためには敵を切り捨てることも厭わないマキャベリスト的な小沢氏の手法に対し、誰に対しても腰が低く「人間関係の和」を重んじる羽田氏との間には、次第に埋めがたい路線のズレが生じていきます。
羽田内閣を瞬く間に少数与党へと追い込んだ「改新」騒動も、小沢氏による電撃的な根回しが招いた結果でした。党首であり首相であった羽田自身も、その強引な段取りを事前に把握し切れていなかったとされ、後年の手記でも当時の孤立感と苦悩を吐露しています。
世間では「小沢の操り人形」と揶揄されることもあった羽田氏ですが、実際には小沢氏の過激な政治手法の防波堤となり、他党とのパイプを繋ぎ止める決定的な役割を果たしていました。後に新進党の結党、そして民主党への合流と変遷を辿る中で、二人の距離は次第に離れていくことになります。しかし、二人が手を組んで自民党を飛び出した勇断がなければ、日本の政権交代可能な二大政党制への道筋が拓かれなかったこともまた紛れもない事実です。