ドイツ軍はなぜ破綻したのか?シュリーフェン・プラン失敗の全真相
シュリーフェン・プランを世界史初心者にもわかりやすく整理すると、その骨子は「東の大国ロシアが準備を整える前に、西の強敵フランスを電撃的に片付ける」という時間差ノックアウト戦略にありました。当時のドイツ帝国は、西に宿敵フランス、東にロシア帝国という二大強国に挟まれており、同時に両面で戦えば国力がすり潰されることは明白だったのです。
1905年、ドイツ帝国参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、この絶体絶命の危機を回避するための覚書を作成しました。作戦の前提として置かれたのが、「ロシア軍は国土が広大で鉄道網も未発達なため、総動員完了までに最低でも約6週間(42日)かかる」という見積もりです。
シュリーフェンは、このロシアの準備期間を利用し、全戦力の約8割から9割を西部に集中配備。フランス東部の強固な要塞線を避け、中立国ベルギーを電撃的に突破してパリを西側から大きく包囲・壊滅させる計画を打ち立てました。フランスを降伏させた後、軍を鉄道で東部戦線へ急ピッチでピストン輸送し、遅れてやってくるロシア軍を叩くという、極めて大胆な青写真を描いていたのです。
しかし、シュリーフェン・プランの概要と結末を俯瞰すると、その結末は無残なものでした。1914年8月に作戦が発動されたものの、初動から計算違いが連鎖。開戦からわずか1か月後の9月、パリ近郊で起きた「マルヌの戦い」でドイツ軍の進撃は完全に阻止され、短期決戦の夢は脆くも崩れ去ることとなりました。