虹色のチョークが描く奇跡の実話|日本理化学工業の現在と感動の真相

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ドラマ『虹色のチョーク』のモデルとなった町工場の奇跡とは、一体いかなる背景から生まれたのでしょうか。社員の大半が知的障がい者という驚きの経営哲学と、誕生秘話の真相に迫ります。

時計の針を1960(昭和35)年に巻き戻します。当時、日本理化学工業の専務を務めていた故・大山泰弘(おおやま やすひろ)氏のもとに、近隣の養護学校(現・特別支援学校)の教員が何度も足を運んでいました。教員の切実な願いは「卒業を控えた知的障がいのある生徒を就職させてほしい」というものでした。当初、大山氏は「機械が並ぶ危険な工場で、知的障がいのある人を雇うことなど不可能だ」と頑なに断り続けました。

教員は諦めませんでした。「就職が無理なのは分かっています。でも、あの子たちは卒業すれば施設に入り、死ぬまで働く喜びを知らずに一生を終えてしまう。せめて1職場で働く体験だけでもさせてあげたいのです」。3度目の懇願に心を動かされた大山氏は、2週間の就業体験として10代の少女2名を受け入れる決断を下します。

そこで大山氏が目撃したのは、予想を根底から覆す光景でした。少女たちは午前8時から午後5時まで、誰一人集中を切らすことなく、無心にチョークの箱詰め作業に没頭したのです。昼休みを知らせるチャイムが鳴っても手を止めず、時計の読めない彼女たちはお腹の空き具合と周囲の動きで時間を測りながら、一心不乱に働き続けました。そのひたむきな姿に最も心を打たれたのは、職場の熟練社員たちでした。実習最終日、社員全員が大山専務のもとへ詰め寄り、「彼女たちの面倒は私たちが必ず見ます。もし足りないところがあれば私たちがカバーしますから、どうか採用してください」と涙ながらに直訴したのです。

こうして1960年、同社初の知的障がい者雇用が正式にスタートしました。これが、日本理化学工業における「奇跡の原点」でした。

佐々木 一輝

佐々木 一輝

ビジネス戦略アナリスト

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。