1940年幻の東京五輪なぜ中止?返上の真相と嘉納治五郎の戦いを追う

1940年幻の東京五輪なぜ中止?返上の真相と嘉納治五郎の戦いを追うの真相や最新動向に迫る! 専門的な視点で紐解きます。

この大会を語る上で欠かせないのが、講道館柔道の創始者であり、アジア人初のIOC委員を務めた嘉納治五郎のオリンピック誘致にかける執念です。1930年代当時、オリンピックは完全に欧米中心の祭典であり、「極東の島国」である日本での開催には根強い偏見と物理的距離の壁(船旅で片道数週間)が存在していました。

1936年7月のベルリンIOC総会において、嘉納は卓越した英語力と情熱的な演説を展開し、委員たちの心を動かしました。自著や手記に残された記録によると、嘉納は「五輪が真に世界的な平和の祭典であるならば、西洋だけでなくアジアの若者にもその門戸を開くべきである」と説き、ライバル都市であったヘルシンキ(フィンランド)を36票対27票の決選投票で破り、見事に開催権をもぎ取ったのです。

しかし、戦争の影はすぐに嘉納の悲願を脅かします。1938年3月、エジプトで開催されたカイロIOC総会において、戦局悪化を理由に開催地変更を迫る欧米委員に対し、77歳の嘉納は孤軍奮闘。「日本は全責任を持って五輪を成功させる」と説得し、奇跡的に東京開催の維持を承認させました。

だが、その代償はあまりにも過酷でした。総会を終えて帰国する途上、太平洋を航行中の客船「氷川丸」船内で嘉納は肺炎を発症。1938年5月4日、日本の土を踏むことなく洋上で息を引き取りました。最大の推進力であり、国内外の防波堤となっていた精神的支柱を失ったことで、日本政府内のバランスは一気に崩壊し、わずか2カ月後の「返上決定」へと雪崩を打つことになったのです。

前田 葵

前田 葵

サステナビリティ研究家

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。