真田幸村の六文銭に隠された真相|三途の川の渡し賃と不惜身命の覚悟
真田幸村と六文銭にまつわるエピソードには、後世の創作やイメージ先行による誤解が少なくありません。取材と文献調査によって判明した3つの重要事実を整理します。
まず、「真田幸村」という名は当時の一次史料には一切登場しません。本人の署名や同時代の記録はすべて「真田信繁」です。「幸村」の名が広く流布したのは、江戸時代中期の軍記物語『難波戦記』の講談本が大ヒットして以降のことでした。
次に、真田家は年中六文銭を使っていたわけではありません。六文銭はあくまで「戦場専用の旗印・陣紋」でした。三途の川の渡し賃は「死」を直截に連想させるため、祝儀や平時の手紙、江戸幕府への提出文書などでは、縁起の良い鳥を描いた「結び雁金」や「洲浜紋」を公的な家紋として使い分けていたのが実態です。
さらに、六文銭を使った武将は真田家だけではありません。滋野氏の流れを汲む信濃の諸氏族はもちろん、東北の名門・福島県周辺を治めた石川氏や、信長に仕えた森蘭丸の森家なども六文銭(六連銭)を家紋や旗印に用いていました。しかし、強烈な戦功と「赤備え」の鮮烈なビジュアルが合わさった結果、現代では「六文銭=真田」という唯一無二のブランドが定着したのです。