鬼才・中島らもの伝説と死の真相|今こそ読むべき最高傑作と名言
1952年に兵庫県尼崎市で生まれた中島らも(本名:中島裕之)は、全国屈指の超進学校である灘中学校・高等学校に進学した秀才でした。しかし、画一的なエリートコースに馴染めず、次第にドロップアウト。大阪芸術大学放送学科を卒業後、印刷会社や広告代理店勤務を経てコピーライターとして頭角を現します。
彼を一躍有名にしたのが、1980年代に手掛けたパロディ広告やコラムでした。「啓蒙かまぼこ新聞」などの型破りな広告企画で注目を浴び、関西カルチャーの旗手としてメディアに露出。1986年には劇団「リリパットアーミー」を旗揚げし、座長として自ら舞台に立ちながら劇作家としても絶大な人気を博しました。この劇団からは後に映像・演劇界を支える個性派俳優が多数輩出されています。
私生活では学生時代に出会った妻・美代子氏と結婚し、一男一女をもうけました。長男の中島P助(中島さも)氏は後にミュージシャン・文筆活動を行い、父の奔放な背中と家庭人としての不器用な優しさを手記などで語っています。家庭を愛しながらも家庭に収まりきらない破天荒な日常は、自伝的エッセイでもユーモラスかつ切なく描かれました。