徳川家斉なぜ子だくさん?50年在位と大奥浪費の真相を徹底解剖
自らの血脈で日本全国の支配層を覆い尽くそうとした家斉の壮大な家系図戦略は、歴史の皮肉としか言いようのない結末を迎えました。
53人生まれた子供たちのうち、無事に成人できたのは約半数の28名程度に過ぎませんでした。さらに、各大名家へ養子に入った男子たちの多くが、20代から30代の若さで次々と病死。養子先で後継者を残せないまま家斉の血筋が途絶えるケースが相次ぎました。結果として、各大名家は家斉以前の本来の血統へ養子を取り直す事態に陥り、家斉が意図した「全国諸藩の徳川親族化」は一代限りで脆くも崩壊したのです。
将軍家本家においても、跡を継いだ12代家慶の子供たちはことごとく早世し、唯一生き残った13代家定にも子はいませんでした。14代将軍となった徳川家茂は家斉の孫(七男・徳川斉順の子)にあたりますが、家茂もまた21歳の若さで病没。これにより、家斉の直系男子の血統は事実上完全に断絶しました。莫大な財政と大奥の女性たちの人生を費やして築き上げた血のピラミッドは、幕府の終焉とともに跡形もなく消え去ったのです。
家斉の最期は、天保12年(1841年)閏1月30日。69歳でこの世を去りました。死因は当時の記録から脳卒中(中風)、あるいは高齢による全身衰弱と考えられています。墓所は東京都台東区の上野寛永寺(徳川将軍家霊廟)に手厚く葬られました。家斉の死後、実権を握った老中・水野忠邦は即座に「天保の改革」を断行し、お美代の方を大奥から追放・蟄居させ、家斉派の側近たちを徹底的に粛清することになります。