チャウシェスク処刑の真相と狂気|1989年ルーマニア革命の結末
独裁の終焉は、あまりにも唐突に訪れました。1989年12月中旬、ルーマニア西部の都市ティミショアラで、体制批判を行っていたハンガリー系の牧師ラースロー・テケシュの国外退去処分を巡り、抗議デモが発生します。チャウシェスク政権はこれを反体制暴動とみなし、軍と悪名高い秘密警察セクリターテに実力行使を命令。非武装の民衆に銃弾が撃ち込まれ、多数の死傷者が出たことで、国民の怒りは沸点に達しました。
しかし、チャウシェスク本人は事態の深刻さをまるで理解していませんでした。イラン公式訪問から帰国した彼は、自らの権力を誇示し群衆を鎮撫するため、12月21日に首都ブカレストのルーマニア共産党本部前広場で官製集会を強行開催します。約10万人の労働者を動員したこの集会こそが、政権の命取りとなりました。
バルコニーに立ったチャウシェスクが演説を始め、労働者の賃金引き上げなどの妥協案を口にした瞬間、群衆の後方から「ティミショアラ!」「独裁者を倒せ!」という怒号とブーイングが上がります。独裁者が狼狽し、エレナ夫人が「静かにしなさい!」とヒステリックに叫ぶ動揺の一部始終は、国営テレビの生中継を通じて全土へ筒抜けとなりました。絶対権力者が怯える姿を目撃した国民は恐怖の呪縛から解き放たれ、蜂起の炎は瞬く間に全国へ広がっていったのです。
翌22日朝、防衛相ヴァシーレ・ミレアが謎の死(公式発表は自殺、実際には処刑命令拒否による粛清説が濃厚)を遂げると、軍は国民側へ寝返ることを決断。党本部ビルが包囲される中、チャウシェスク夫妻は屋上からヘリコプターで脱出を試みますが、パイロットの機転や燃料切れを理由に途中で着陸を余儀なくされ、最終的に身柄を拘束されました。