水木しげる戦争体験の真相|ラバウル生還と左腕切断、玉砕の闇
1943年、21歳で召集令状を受け取った水木しげるは、鳥取の歩兵第40連隊に入隊後、激戦が続く南太平洋のニューブリテン島ラバウルへと送られました。配属先はラバウル南西に位置するズンゲン(バイエン)の最前線基地。そこで彼を待ち受けていたのは、敵の圧倒的な物量作戦と、日本軍特有の硬直した精神主義でした。
1944年3月、米豪軍の猛攻を受けたズンゲン支隊に対し、連隊本部から下されたのは事実上の玉砕命令でした。敵陣への突撃を余儀なくされ、隊員が次々と命を落とす中、水木は敵の包囲網をかいくぐり、海へ飛び込んで決死の脱出を敢行します。ワニやサメが潜む海を泳ぎ、飢えとマラリアの高熱に苛まれながらジャングルを何日も彷徨い歩いた末、奇跡的に友軍の陣地へとたどり着いたのです。
しかし、生還した彼を待っていたのは温かい迎え入れではなく、「なぜお前だけが生きて帰ってきたのか」「なぜ潔く自決しなかったのか」という上官からの激しい叱責と冷遇でした。軍隊にとって「生還」は恥辱であり、兵士個人の命よりも面子や軍規が優先される狂気の論理が支配していたのです。この時の強烈な不条理体験が、のちに名作『総員玉砕せよ!』を生み出す直接的な原動力となりました。