なぜ山上徹也に「よくやった」の声が?同情と英雄視の真相と裁判動向
家族社会学および犯罪心理学の観点からこの事件を総括するならば、山上徹也という特異な存在が映し出したのは「日本社会のセーフティネットの機能不全」と「法治主義の脆弱性」という2つの鏡です。
親がカルト宗教にのめり込み、全財産を奪われ、子どもがネグレクトや進学妨害に遭うという「宗教2世の虐待問題」に対し、行政も警察も「信教の自由」「民事不介入」を盾に長年介入を拒み続けてきました。この公的介入の空白地帯が、被告を絶対的な孤立へと追いやり、自力救済という名の暴走を生み出した構造的要因であることは間違いありません。この点において、社会が彼の生い立ちに耳を傾け、二度と同様の悲劇を生み出さないよう制度改革を進めることは極めて健全な営みです。
しかし、「生い立ちへの同情(Compassion)」と「殺人の免罪(Impunity)」は、絶対に不可侵の境界線として峻別されなければなりません。境遇にどれほど同情すべき点があろうとも、他者の生命を暴力で奪い、自己のメッセージを社会に押し付ける行為を「よくやった」と容認してしまえば、社会は弱肉強食の野蛮な報復社会へと退行します。
ネット上の安易な礼賛論に加担してはならないのは、「暴力による問題解決」を一度でも肯定すれば、次は自分自身や大切な人が別の理屈を持つ暴力の標的になり得るからです。悲劇的な境遇に心を痛めることと、凶行を断罪することは完全に両立します。この両者の境界線を見失わないことこそが、成熟した市民社会に求められる唯一の姿勢です。