脱亜論とは何か?福澤諭吉がアジア決別を叫んだ真の理由と現代の評価
脱亜論を単なる「近隣見下し」の暴言と片付けるのは、歴史の力学を見誤る原因になります。なぜなら、福澤諭吉は元来、アジア諸国を見下すどころか、最も熱心に朝鮮の近代化改革を支援していた後援者だったからです。
明治10年代初頭、福澤は慶應義塾の門戸を開き、李氏朝鮮から来日した開化派(独立党)の若きエリートである金玉均(キム・オッキュン)や朴泳孝(パク・ヨンヒョ)らを私財を投じて迎え入れました。彼らに国際法や近代教育の重要性を説き、朝鮮初の近代新聞『漢城旬報』の創刊を支援するために慶應義塾出身の印刷技術者やジャーナリストを漢城(現ソウル)へ派遣したのも福澤本人です。当時の福澤が抱いていた理想は、日清朝の三国が手を携えて近代化を成し遂げ、白人列強の侵略に対抗する「アジア連帯(興亜論)」に近いものでした。
その理想を根底から粉砕したのが、1884年(明治17年)12月に勃発した「甲申政変」です。
日本の後ろ盾を信じた金玉均ら開化派は、親清派の守旧勢力を排除すべくクーデターを断行しました。しかし、袁世凱率いる清国軍の迅速な武力介入により、わずか3日で蜂起は鎮圧されます。首謀者たちは惨殺され、日本へ命からがら亡命した金玉均の留守宅では、老父母や妻子が処刑、あるいは自決に追い込まれました。さらに、処刑された同志たちの遺体はバラバラに引き裂かれて晒し首にされる「凌遅刑(りょうちけい)」に処されたという知らせが福澤のもとに届きます。
自身の手記や弟子宛ての書簡において、福澤がこの残虐な刑罰や改革派一族の族滅に対して激しい嘔吐感を覚え、激昂した様子が記録されています。自らが心血を注ぎ、日本の未来を重ね合わせた若き改革者たちが、前近代的な残忍さによって完膚なきまでに叩き潰された瞬間でした。
加えて、イギリスがロシアの南下を阻止するために朝鮮南部の巨文島を占領する事件(巨文島事件)が発生するなど、朝鮮半島は欧米列強の草刈り場と化しつつありました。清国と朝鮮の守旧派が自立の道を閉ざした今、このまま連帯を夢見て付き合っていれば、日本まで植民地化の渦に巻き込まれる――この実存的危機感こそが、福澤を「脱亜」という冷酷な決別宣言へと駆り立てた執筆の核心でした。