金日成とは何者だったのか?偽者説と急死の真相、朝鮮戦争の闇を暴く
北朝鮮の公式歴史書が描く金日成の生涯は、幼少期から非凡な軍事の天才であり、単独で日本軍を打ち破って祖国を解放したという壮大な英雄神話で彩られています。しかし、旧ソ連の極秘文書や歴史学界の綿密な史料批判が明らかにした金日成の経歴は、そうした偶像とはかけ離れた泥臭い権力闘争と軍事的プラグマティズムの産物でした。
1912年4月15日、平安南道大同郡の貧しい農家に生まれた彼の本名は金聖柱(キム・ソンジュ)です。幼少期に一家で中国・満州(現・中国東北部)へ移住し、中国共産党指導下の反日遊撃隊(東北抗日聯軍)に参加しました。彼が歴史の表舞台に名を刻む契機となったのが、1937年の普天堡(ポチョンボ)の戦いです。北朝鮮側の喧伝では日本軍の大部隊を撃破したとされていますが、客観的な警察記録や交戦記録によると、実態は約200名の部隊で国境沿いの小さな町を急襲し、警察駐在所や面事務所(役場)を襲撃・放火して撤退したゲリラ作戦でした。軍事的な打撃は限定的だったものの、当時の東亜日報などが号外で「金日成部隊が越境襲撃」と大々的に報じたことで、彼の名は抗日運動のシンボルとして朝鮮半島全土に轟くことになります。
その後、日本軍の激しい討伐作戦によって追いつめられた金聖柱は、アムール川を渡ってソ連領内へと脱出します。ハバロフスク近郊のヴャツコエに設置されたソ連極東軍第88独立歩兵旅団に編入され、ソ連軍大尉(ロシア名:アレクサンドル・キム)として軍事訓練を受けながら雌伏の時を過ごしました。1945年8月の日本の敗戦に伴い、ソ連軍の軍艦でウラジオストクから元山港へと帰還した彼は、わずか33歳の若さでモスクワの意向を受けた指導者候補として平壌の群衆の前に姿を現すことになったのです。