織田信長は死んでない?本能寺の変で遺体が消えた驚愕の真相
では、なぜ信長の遺体は消え去ったのでしょうか。当代の一級史料を照合すると、極めて合理的かつ切実な理由が浮かび上がってきます。
信長の一代記である太田牛一の『信長公記』には、最期の瞬間について次のように記録されています。信長は自ら弓や槍を取って防戦したのち、傷を負うと殿中深くへ退き、「女房衆には目もくれず、奥の部屋へ入り、内より障子を立て切り、切腹なされた」と記されています。さらに重要なのは、側近たちに命じて殿舎に火を放たせ、遺体が敵の手に渡らないよう厳重に処置させた点です。
当時、本能寺に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』でも、信長が手傷を負って奥の部屋に入り、自ら火を放って煙の中に姿を消したこと、そして光秀の兵が火勢の激しさにより遺体を見つけることができず、完全に灰になったと判断した旨が詳細に報告されています。
これらを裏付ける物理的要因として、以下の3つのメカニズムが指摘されています。
- 火薬と油脂による超高温火災:本能寺は単なる寺院ではなく、信長の上洛時の宿所として防衛拠点化されており、大量の鉄砲用火薬や調度品が保管されていました。火薬庫への引火と猛烈な火勢によって建物全体が炉のような超高温状態となり、人骨すら脆い灰へと分解された可能性が高いとされます。
- 側近(森蘭丸ら)による遺体の切断・隠匿:敵に首を奪われることは武士にとって最大の恥辱です。小姓の森蘭丸(乱)や側近たちは、信長が自刃した直後に遺体を別室の床下深くへ埋めるか、激しく燃え盛る火中へ投げ入れ、光秀軍の侵入を食い止めるために自らもその場で討死したとみられます。
- 京都・阿弥陀寺の清玉上人による密葬:京都市上京区にある阿弥陀寺の記録『阿弥陀寺過去帳』によると、信長と旧知の仲であった清玉上人が僧侶らを率いて本能寺の裏手から侵入し、信長と織田信忠の遺骸を火葬して寺へ持ち帰り、密かに埋葬したと記されています。現在も同寺には織田信長の墓碑が存在し、遺骨が眠っていると伝えられています。