邪馬台国と卑弥呼の正体|畿内説と九州説の論争と最新研究の新事実

邪馬台国と卑弥呼の正体|畿内説と九州説の論争と最新研究の新事実に関する最新の話題を丁寧に解説いたします。

卑弥呼の死後、倭国は再び内乱の危機に直面しました。男王が擁立されたものの国中が服従せず、千人余りが命を落とす大混乱に陥ったと記録されています。この危機を収束させたのが、卑弥呼の宗女(血縁の女性)である当時13歳の少女、後継者・壱与(いよ/台与・とよ)でした。

壱与が女王に即位すると内乱はたちまち収まり、彼女は266年に魏から政権を奪取した「西晋」へ朝貢の使者を派遣しています。中国側の史書において倭国の記述が確実に見られるのはこの使節が事実上最後となり、その後、4世紀から5世紀にかけての「空白の4世紀」へと突入します。

壱与の時代を経て、邪馬台国を中心とする地域連合は、やがて大和盆地を本拠地とする初期ヤマト王権へと発展的解消・統合を遂げていったという見方が現在の歴史学では優勢です。王権の誕生と前方後円墳体制の確立は、卑弥呼から壱与へと受け継がれた宗教的・政治的統合システムが全国規模へと拡大したプロセスそのものであったと言えます。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

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