巨福呂坂切通しが立入禁止の理由とは?歴史の真相と迂回路を徹底解説
巨福呂坂切通しの起源は、鎌倉幕府の統治体制が盤石化しつつあった13世紀前半に遡ります。歴史書『吾妻鏡』によると、仁治元年(1240年)10月、第3代執権の北条泰時自らが現地に赴き、道路開削の指揮を執ったと記されています。当時、山ノ内(現在の北鎌倉周辺)から鎌倉中心街へと通じる道は険しい難所であり、武蔵国方面との連絡路を確保することは幕府にとって軍事・経済の両面で最優先課題でした。
切通しが開通したことで、物資の流通速度は劇的に向上しました。近隣に建長寺が創建されると、禅宗文化の流入路としても機能し、鎌倉の都市的発展を支える大動脈へと成長します。同時に、有事の際には敵軍の侵入を狭隘な崖間で食い止める強固な防衛拠点としての役割も兼ね備えていました。
時代が下り、明治時代に入ると近代交通の需要に対応するため、明治19年(1886年)に新たなトンネル状の道路(後の巨福呂坂洞門周辺ルート)が開削されました。これによって中世以来の旧切通しはその役目を終え、人々の日常から切り離されたことで原生林の中に埋もれていくことになります。1969年には国の史跡に指定され、中世都市・鎌倉の骨格を今に伝える貴重な遺産として学術的評価を確立しました。