岩崎弥太郎はなぜ巨万の富を築けたか|三菱創業者の野望と死因の真相
明治の経済史を語る上で避けて通れないのが、岩崎弥太郎と渋沢栄一の思想的対立です。資本を広く世間から集めて多くの人々を豊かにする「合本主義(株式会社制度)」を信条とした渋沢に対し、弥太郎は「船長が二人いては船は沈む。事業は一人の天才的専制君主が率いるべきだ」という徹底した独裁型経営を是としました。
明治11年(1878年)、隅田川に浮かべた屋形船で、弥太郎は渋沢栄一を招いて酒宴を開きました。弥太郎は渋沢に対し、「私と手を組み、日本の実業界を二人で牛耳ろうではないか」と持ちかけたと伝えられています。しかし、渋沢は「私欲のために事業を独占するなど言語道断。公益を優先すべきだ」と激怒し、提案を拒絶。二人は物別れのまま船を降りました。
この決裂を契機に、三菱の独占支配に危機感を抱いた渋沢栄一や三井財閥、反三菱勢力の政治家(品川弥二郎ら)は、総力を結集して対抗組織「共同運輸会社」を設立。ここに日本海運史に刻まれる「海運戦争」が勃発しました。
三菱と共同運輸は、同じ航路で同一時刻に船を出航させ、乗船客を奪い合う熾烈な運賃値下げ合戦を展開。運賃は通常の10分の1以下にまで暴落し、客引きのために船内で芸者を侍らせたり高級料理を振る舞ったりするなど、採算を度外視した消耗戦へと突入しました。この壮絶な潰し合いの最中、弥太郎の肉体は病魔に蝕まれていくことになります。