日本の旧国名と都道府県の違いとは?令制国68国の謎と廃藩置県の真相

日本の旧国名と都道府県の違いとは?令制国68国の謎と廃藩置県の真相について知っておくべき ポイントを分かりやすい構成で解説いたします。

日常生活において「信州」「越後」「播州」といった呼称に触れる機会は多いものの、都道府県名と旧国名の違いを構造的に説明できる人は多くありません。最大の違いは、区分が誕生した「目的」と「境界線の引き方」にあります。

旧国名(令制国)は、7世紀後半の飛鳥時代から奈良時代にかけての中央集権国家体制、すなわち「律令制」の施行に伴って制定された行政区分です。朝廷が租税を徴収し、戸籍を管理し、軍事・治安を統制するための恒久的な地域単位として設計されました。山脈や大河川などの自然地形を境界とし、一度画定された後は平安時代から江戸時代末期に至るまで、境界の変更が極めて少なかった点が大きな特徴です。

これに対し、現在の47都道府県は、明治4年(1871年)の廃藩置県の経緯を経て成立した極めて近代的な統治機構です。廃藩置県が断行された当初は、全国に300を超える「県」が乱立していました。その後、明治9年(1876年)の大規模統合を経て、明治21年(1888年)の香川県独立によって現在の47都道府県体制がほぼ固まりました。

ここで多くの歴史ファンが抱く疑問が、「なぜ新政府は、千年以上親しまれてきた旧国名をそのまま県名にしなかったのか」という点です。事実、武蔵国は東京都・埼玉県・神奈川県の一部に分断され、山城国は京都府となり、尾張国は愛知県に、加賀国は石川県へと改称されました。

歴史研究者や当時の公文書が示す決定的な理由は、「旧幕府・雄藩の求心力解体」と「地方反乱の抑止」にありました。明治維新直後、薩摩・長州・土佐・肥前といった倒幕勢力や、幕府側についた会津・庄内などの旧藩意識は極めて強固でした。旧国名を行政名として残せば、地域住民の意識が古代・中世以来の在地勢力や藩閥に結びつき、中央政府への忠誠心が薄れるリスクがあったのです。

明治政府はあえて城下町の都市名(金沢→石川、名古屋→愛知、府中→山梨など)や、郡名、自然地名を採用することで、旧来の領主意識や国単位の連帯感を意図的に分断しました。さらに、戊辰戦争で朝敵とされた東北諸藩などに対しては、県庁所在地を旧城下町から別の郡へ移すなど、政治的な懲罰的意図が反映されたケースも確認されています。こうして旧国名は公的な行政区分としての座を降ろされ、近代的な「県」へと置き換わっていきました。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。